プロフィール

今咲七海のプロフィール

子どもが学校に行けなくて、お悩みのお母さんへ 私の子どもが不登校になり、多くの壁にぶつかりながら試行錯誤の 末に、 心の支えになるカウンセラーとの出会いが解決の鍵になると確信しました。

カウンセラー選びは、とても大切です。

✅不登校を専門としているカウンセラーで的確なアドバイスをくれること。

✅自分の気持ちに共感してくれそうな相性のいいカウンセラーであること。

✅非難されることなく、安心して話をしたり質問したりできると思えるカウンセラーであること。

その視点から、プロフィールをお読みいただければと思います。 私の経験の中にも解決の糸口はたくさんあります。

学校に行けない本当の理由を見つけ出し 罪悪感や不安を取り除く具体的な方法に興味はありませんか?

10年間心の相談員として3000人以上の子供を笑顔にしてきたカウンセラーが 不登校の段階に応じた アドバイスで 「家族が幸せになる不登校カウンセリング」をしています

お母さんの幸せは、こどもにとっても幸せです。 家族みんなが元気を取り戻す、幸せな安心家族になりませんか?

 

キャリアを捨てて、子育てに専念することに

長男の出産を機に、29歳で外資系の製薬会社を退職した私は、時間に追われる生活から子育てに専念できる環境になりました。子供中心の母親としての生活が始まりでした。

 

だけど育児はつらいことばかり。でも良い母、良い妻でいなければ…。

4年後に次男が誕生。ひどい食物アレルギーで、母乳育児のため自分も市販のものはほとんど食べられず、除去食つくりとアトピーの通院に明け暮れました。次男が2歳の時には小児ガンがみつかり、眠れない日々を過ごしましたが、手術により幸いにも完治しました。「子育てはつらいことばかり…。」という後ろ向きな思いで子育てする日々を過ごしました。そしてさらに4年後に三男を授かりました。

子どもと過ごす毎日に、「明日の朝、目覚めなければいいのに…。」

兄弟の年齢差もあり、子ども中心の生活が果てしなく続くように感じていました。話す相手は子どもとママ友だけの狭い世界。社会から取り残された毎日の生活に、自分の人生を生きている気がしませんでした。

一日の終わりに「明日の朝、目覚めなければいいのに…。」とさえ思うようになっていました。このままではよくないと、思い切って1歳児の三男を預けてパート勤めにでました。

 

思い通りにいかないと、いらいらする日々。でも愚痴をこぼすこともできなくて…。

それからは、仕事、家事、子どもたちの世話、習い事の送迎をこなす毎日でした。過密なスケジュールに、子どもが思い通りにならないと、いらいらすることもありました。でも、自分のわがままでパートに出ているという負い目もあって、愚痴をこぼすこともできず、三男の子育てには深夜に帰宅する夫よりも、小学生になっていた長男を頼りにしていました。

子どもたちは健康で、成績は優秀、人望もあり、平穏な毎日は過ぎていきました。子どもの評価が高いことがせめてもの報いでした。これから噴き出してくることになる潜んでいる問題に、ただ気づけなかっただけでした。

 

それは、小さなきっかけから始まった

担任の先生から電話があり、児童会の担当の先生に息子がひどく叱られたこと。息子には落ち度はないのに担任から見ても理不尽だったと思うので、お家でケアしてあげてくださいという内容でした。「自分が悪くなかったなら、何も気にすることないよ。」と息子にひとこと言って解決したと思ってました。そのことがあってから眠れないと訴える息子のSOSを、受け取る余裕のない母親でした。

長男が小5で不登校に。

毎朝、起こさなくてもすべて身支度して定刻に階段を降りてくる息子。その日もいつものようにランドセルを担いで降りてきましたが、「今日は学校に行けない。足が一歩も動かない。」と青白い顔で立ちつくしていました。

何が起こっているのか、まったくわからない。

息子に異変がおこっていることは感じました。でも、どうしたらいいのかわかりませんでした。仕事もあるし、とにかく学校に行かせなくちゃと思い、立ち尽くしている息子に食事をさせて、車に押し込むようにして学校に向かいました。胸騒ぎがしていました。

「なんで?なんでこんなことになるの?」

毎日、必死で子育てしてきたのに…。パート先から保育園にお迎え、帰宅したら食事の用意、食べさせて片付けて、宿題をみて、お風呂入れて、遊んだ後に寝かしつけて、夫が帰る前に散らかった部屋を片付けて。毎日頑張ってきたのに…。

息子が学校に行けないと、私もだめな母親だと思えて、買い物にも行けなかった。

 

翌日も、その翌日も息子は学校に行けないと言いました。

「ああ、私の息子は不登校になった。」

その事実が身に染みてきました。とても良い子だった長男を私が不登校にしたんだ。「ママ友はみんな私のことを、だめな母親だと思ってる。もう誰にも会えない。」人に会うのがいやで、買い物にも出られませんでした。無気力な息子とともに、家で落ち込んでいました。

 

すがる思いで精神科の受診するも、「父親不在の家庭に原因がある」と言われ困惑。

どうしたらいいのかわからず困り果て、普段小児は診察しないという近所の精神科に頼み込んで診察してもらいました。不登校に至るまでの経過を話したら、医師からは

「父親の帰りが遅いから、この子が父親代わりまでしている。子どもらしく過ごす時間が足らないんだよ。」「しばらく休んで好きなことしていれば、そのうち学校行けるわ。」 と言われておしまいでした。予想もしない言葉でした。 「教師のパワハラじゃなくて、家庭の問題なの?」とさらに困惑していました。

戸惑いながらも医師の言葉をそのまま夫に告げると、 「先生のせいじゃなくて俺のせいか?俺が一所懸命働いていると、子どもが学校行けなくなるのか?」不機嫌そうなその言葉に、なんて返していいのかわかりませんでした。

 

それから息子は休んで家にいましたが、どんどん元気がなくなり、朝起きられなくなっていきました。「しばらく休ませるって、いったいどのくらい休めばいいの?」と私は不安に思いながら、毎朝辛そうにしている息子を起こしていました。学校に行かなくても、とにかく朝は起こさなくてはいけないと思い込んでいましたから。

大きな病院の小児精神科の不登校外来を予約をするが、2か月待ち。

学校に行かないまま2か月が経ち、不登校外来がある小児精神科にかかりました。絵をかいたり簡単なテストをした後で、医師から「しばらくは学校を休みましょう」と言われました。11歳にして適応障害と診断され、抗うつ薬や安定剤を処方されました。ここでは教師の高圧的な態度により、精神的なショックとストレスにより、うつ状態になったといわれたました。

当時、体が動かないほどのストレスの中でも、「学校に行かなければならない」という強い呪縛は息子だけでなく私にもありました。無理に登校させてはいけないとの言葉に、息子は初めて解放された様子でした。それからは精神科の医師を信頼し、素直に話を聞くようになりました。

 

家では落ち着いてきた息子も、学校を見ただけで震えてしまう。

学校側は、新学年からの登校をしきりにすすめてくるので、担任との関係はよくありませんでした。校長は教師の対応のまずさに責任を感じているのか、当事者を転任させること、新担任を配慮することなどで、登校しやすい環境にしたと伝えてきました。学校にも精神科の医師が登校を止めたと伝えたら一切の登校刺激がなくなり、息子はさらに楽になったようです。

新学年になっても息子は登校しませんでした。理不尽な先生はもう転任していましたが、学校を見ただけで震えてしまうほど息子の心はダメージを受けていました。週に1回児童が下校した夕方に、私と一緒に学校に書類を取りに行くのが精いっぱいでした。

私は学校に行かせなくても良いと言われたことで、迷うことがなくなりました。それでも、習い事も全部やめてしまい、毎日家でボーとすごしている無気力な息子を見ると 「優しくて素直で、頑張りやさんの息子はどこに行ってしまったの?」と思っていました。まだその時には、本当の意味で息子を受け入れられていなかったのです。

 

自分の母親に相談すると、「あんたのせいだ。」と責められて…。

こどもが不登校になったとき、一番つらいのは子どもだってわかっているけれど、親だってとてもつらいのです。その気持ちを受け入れてほしくて、自分の母に相談したところ、さっそく孫の顔を見に来てくれました。学校の先生もひどいよねと同情してくれるかと思っていたのに「こんなに元気なくなってしまって…。あんたのせいだからね。」と私が責められました。

その時になぜか自分の内側から、マグマのような怒りがわいてきました。なんで腹が立つのかよくわからないままに、反射的に息子に

「あなたが早起きしてくれないと、私がおばあちゃんに怒られるじゃない。さっさと起きて。」

とイライラをぶつけていました。言った後に我に返り「今、自分の母親とかかわってはまずい。」と感じました。母とはしばらく距離をとることにしました。それでもときどき我が家を訪ねてきては、私や主人にダメ出ししてくる母にたまらなくなって、

「ずーっとあなたの言うとおりに生きてきた。ずーといい子でやってきたのに、その結果がこれだよ。どうせ私はダメな母親だよ。もうわかったから二度とこの家に来ないで。」と泣きながら叫んでいました。自分の抑圧された思いが、目の前に不登校という現実を引き起こしているとは、この時の私にはわかっていませんでした。

 

ママ友に進められて、整骨院へ

落ち込んでいる私を心配して、ママ友が整骨院を紹介してくれました。背骨を整えて自律神経を回復させる治療でした。そこでは、「息子さんはもちろんだけど、お母さんも治療しなさい。」と言われました。一目見てそういわれるくらい、私自身も追い詰められ憔悴しきっていたのでしょう。治療を受けたら学校に行けるというわけではありませんでしたが、ふたりともよく眠れるようになりました。

 

父親が変わるまで、不登校は続いた。

夫は学校に行かない息子に、「学校に行かなくてどうするつもりだ?」「ずっと働かずに家にいるつもりか?」と聞いていました。息子は黙ってうつむいていました。そんなふたりのあいだで私は、夫に腹が立ったり、息子に同情したり、ときに夫に同調したり、自分の気持ちもわからずおろおろしていました。

ずっと学校に行かないどうなるのか…。わからなくて怖かったのは夫自身なのだと、そして私自身だったと気づきました。私たち夫婦は学校に行くのが当たり前として育ってきたし、失敗してはいけないといわれて生きてきました。息子の不登校は夫にとって衝撃で、不安だったのでしょう。

そんな夫の気持ちがわかり、夫婦で息子の不登校について、いろんな話をするようになりました。「ずっと学校にいかなかったら、どうなるのか。40年以上生きてきた私たちがわからないのに、11年しか生きてない息子は聞かれたって、もっとわからなくて不安なんじゃない?」

だったら、嘘でもいいから「お前ひとり食わせるくらい何とでもなるって言ってあげてよ。」と夫にお願いしました。少しずつ夫も変わり始めました。会社を中抜けして、一緒に精神科の診察にも来てくれるようになり、息子も嬉しそうにしていました。

 

精神科の先生の助言で、段階的に登校できるように。

そんなころ精神科の先生からは、段階的に登校していきましょうと提案されました。3時間目に迎えにいったり、給食後に迎えにいったり、パート勤めとはいえ息子のために時間をやりくりしました。はじめは硬い表情の息子も、日を追うごとに友達と笑いあうことも増えてきて、プールの始まるころには1日学校で過ごせるようになりました。やれやれやっと終わったと泣けてきました。私の心は消耗しきっていました。

 

本当はなにも解決していなかった。中学で再び不登校に。

登校できるようになったからといって、本当の意味での不登校の解決になっていなかったことを、中学に入学してから思い知ることになりました。

中学生になり、部活や勉強で忙しくなるなか、息子はどんどん元気をなくしていきました。夏休みになっても、無気力で宿題もできず、2学期には登校できない日が増えていきました。毎朝玄関で行くのか、行かないのか押し問答です。小学校とちがい、中学を休んだら勉強が遅れてしまうという恐れを感じていた私は、自分から休んだらと言えませんでした。「このままでいいのかしら。このままではだめなのでは。」とひとりで悩んでいました。

スクールカウンセラー(臨床心理士)はうなづくばかり…。

学校に行けない日が増えたころ、学年主任の先生と面談がありました。いろいろ質問されましたが、「母乳で育てましたか?」と聞かれたのは、いまだに謎です。スクールカウンセラーとも初めて会いました。わからないことだらけだったので、いろんな疑問がとけるかと、すごく期待していました。

「どうして学校に行けないんでしょうか?」

「新聞で読んだのですが、起立性調節障害でしょうか?」

など、次々に質問する私に、「そうですねー。」と繰り返すばかりで、私の求める答えは得られませんでした。スクールカウンセラーや教員といえども、不登校のことをよくわかっていない人もけっこういるのです。

頼みの精神科の先生も、安定剤をくれただけだった。

以前診てもらった精神科の先生にまた診てもらいました。「理不尽な教師もいないのに、息子は学校に行けません。いったい何が起こっているのですか?」私の頭の中はこの言葉がぐるぐる回っていました。精神科の先生の診断は「これは普通の不登校です。行ける日は学校に行ってください。」でした。特にうつ状態というわけでもなく、不安を抑える薬飲みながら行ける日は登校しましょうと言われ、息子はがっかりしていました。「しばらく休んでください。」って言ってほしかったんでしょう。

迷いと葛藤の日々

その日から、行くのか行かないのか、行かせるのか休ませるのか、葛藤の日々が始まりました。日曜の夜になる息子は「明日は学校?学校だよね?」と何度も何度も言ってきます。そんな息子の気持ちを思いやる余裕はなく、私は日曜日の夜が憂鬱でした。

本当の心理カウンセラーとの出会い

そんな時、学校のお便りに「心の健康相談員による不登校の親の会」のことが書かれていました。平日の夜に開かれている親の会に、忙しい夫を説得し夫婦で出かけました。そこで出会ったのが相談員をしているカウンセラーでした。その人は臨床心理士ではありませんでしたが、何年もカウンセリングを学ばれて心の健康相談員をされている人でした。人生をかえる出会いとなりました。

親の会に出て息子の話をしました。日曜日になると「明日は学校だよね?」と何度も何度もきいてくるのでつらいですというと、カウンセラーは「息子さんの言葉は、私には、お母さん助けて。」と言っているように聞こえますよと言われました。思いがけない言葉に、とまどいながらも、この人と話したいと思いました。

 ウンセリングを受けることで、暗闇に光がさした。

私と息子は心の相談員さんのカウンセリングを受け始めました。私個人でうけたり、親子でうけたり、息子ひとりでうけたりしました。私は自分の苦しい気持ちを受け止めてもらい、信じられないくらい泣きました。素直な気持ちで話ができるようになり、息子が不登校になったことで、激しく自分を責めていることに気づきました。私の母に責められたこともあり、みんなが私のことを責めていると思い込んでいましたから。

カウンセリングをうけた後、本当に世の中の照明がパッと明るくなったように感じました。息子は学校には行けないという状況は何も変わっていなくても、暗闇に光がさしたようでした。

自らもカウンセリングや、心理学、コミュニケーションについて学びを深める。

それからは夢中でカウンセリングやコミュニケーションについて学びました。そして心理学から、潜在意識に働きかける心理療法について学ぶとともに、不登校に至るまでの理由や解決するための心の仕組みを学び、自分なりに理解していきました。 

話を聴く、伝える、話し合う。この3つのコミュニケーションを意識することで人間関係はすごくよくなります。親が適切な対応や声掛けをすることで、子どもに愛情が伝わり、みるみる元気になっていきます。また子どもの自立もうながされることを学びました。

親の会では同じ悩みを持つ人とつながりました。いじめとか母親との死別とか、不登校になるきっかけはさまざまでした。カウンセリングを学ぶにつれて、私に話をしたがる人が増えて、親の会の帰り際に引き止められて、帰るに帰れないことも多々ありました。「世の中の人は、話を聞いてくれる人を求めているんだな。」と思ったのをよく覚えています。話を聞ける人になりたい、そう思い始めました。

 

頭ではわかっても、心からありのままの子どもを受け入れられない。

カウンセリングを受けた直後は、とても大きな気持ちになって、どんな息子でもありのまま受け入れようという気持ちになります。とはいえ、やはり学校に行かない息子を見てふっと不安におそわれたりしました。頭でいくらわかっていても、心の奥底には「みんなと同じように学校に行ってほしい。」というしみこんだ価値観があり、簡単には行動はかわりません。

相変わらず「受け入れようと思っても、子供のことが受け入れられない自分」がいるのです。カウンセラーはそのままの私にずっと寄り添ってくれました。わかっていてもできない自分、不完全な自分を責めてしまう私をまるごと受け入れてくれました。だからこそ人は変化できるようになるのです。

ありのままの自分では親に愛されないと感じて生きていた私にとって、感じたことのない安堵感でした。ありのまま受け入れてもらった、その安堵感の中でわたしの変化が始まりました。

 

自分の人生を自分で決められるようになる

カウンセラーの勧めもあり、私たち夫婦と息子の三人で話し合い、息子は学校にはもう行かないという選択をしました。学校に行かなくても生きていける方法を三人で探していこうと決めました。その日のうちに息子は教科書をたばねて捨ててました。(こっそり拾いに行きましたけど…)

 

解放されたら、本当に自分のやりたいことに気づき始めた息子

中2になった息子は、学校に行かなければいけないという思いから解放されて、好きなことをしているようでした。人目を気にせず、朝から100円ショップにでかけたりしてました(笑)本人の希望もあり、事情を理解してくれる業者さんで内職を始めました。なかなか技術を要する仕事でしたが、丁寧な仕事で評価も高かったです。貯めた賃金で当時最新のiPadを購入しました。自分の力で欲しいものを手に入れた自信と、働くことの大変さを学んだようでした。

インターネットとつながった息子はいろいろな情報に触れ、大学に行きたいと思いはじめました。たくさんの情報を集めた結果、単位制の昼間定時制の高校への進学を考えるようになりました。

家庭教師との出会い

学校に行かずに勉強したいというので、家庭教師をつけました。その方は薬剤師でありながら難病を抱えておられて、それでも家庭教師を引き受けてくださいました。明るく自立した素敵な女性でした。彼女と一緒に勉強するようになり、息子の自立は加速し、自信を取り戻していきました。

中学に入ってからまともに授業は受けていない息子でしたが、中2の二学期に学校の定期テストを受けてみたいというので、別室でテストを受けました。思った以上の成績で、普通に高校へ進学できる力は十分ありました。しかしテストを受けても授業を受けていないと内申書の評価はされないとのことでした。当時はまだ、登校しないと進路の幅は狭くなりました。内申書の評価をもらうために、息子は中学3年生の初日から登校し始めました。

 

もはや不登校は問題ではなくなる

登校し始めたとはいえ、行きづらい日もあったし、遅刻して行く日もありました。見ていて辛い時もありましたが、目標に向けて頑張っている息子を、案じるよりも応援しようというスタンスを守りました。

息子の人生と自分の人生が独立したものとなってからは、もはや不登校は私の問題ではなくなりました。「心配する」より「信頼する」ことにしたのです。学校では理不尽な目にあうこともあったでしょう。そんな時は、ひたすら息子の話をきいて、息子自身にどうするか決めてもらいました。息子はどんどん本来の力を発揮して、周囲も驚くほどの成績で、全日制の志望校へ進学していきました。

 

本当の意味でありのままの子どもをすべて受け入れられたら、不登校は解決する。

自分のことをふりかえってみれば、不登校になるまでは、親にもらった価値観で他人軸での子育て、世間体からこうあらねばならないという思いからの母親像、こうしないと子どもは幸せになれないという思い込みがありあした。こどもの評価が自分の評価だと感じ、息子が不登校になったとき自分もダメな人間だと自分を責めていました。そんな自分を丸ごと受け入れたら、息子のことも受け入れられたように思います。

 2010年 学校の心の健康相談員となる。

私たち親子と同じ思いをする人のために私の経験と学びがいかせたらという思いから、私も心の健康相談員として学校で働き始めました。以来10年あまりの間に、不登校、虐待、いじめ、DV、ステップファミリー、学級崩壊、発達障害、非行など、さまざまな事例を経験し、たくさんの方の悩みに向き合い、3000人を超える子供たちを笑顔にしてきました。

 

私なりに子どもを愛していた。

自分の子育てをふりかえってみれば、心配性で過干渉だったり、まじめすぎたり、感情的になったりしたかもしれませんが、特別にだめな親だったかといえば、そうでもないと思います。 「ゲームは宿題終わってからね。」とか「始めた習い事は、続けないとだめ。」とか「~しなければならない。~すべき。」を一生懸命守り、まじめに子育てしていました。 そういう風に自分も育ってきたし、それが子どもの幸せにつながると信じていましたから。それも私なりに子供たちを愛していたからこそです。

私自身は、ありのままの自分でいると母を不幸にしてしまうと感じて育ちました。母に認められない自分は、姉弟に比べてダメな人間だとコンプレックスを感じていました。そんな私も、息子は不登校のおかげで、母の基準ではなく自分の人生を生きられるように変わるきっかけをプレゼントされたのです。

私たちのように、遠まわりしなくても幸せ家族になれることを伝えたい。

私たち家族が不登校から経験した軌跡のように、何年もかかって遠まわりすることなく幸せ家族になれることをたくさんの方に伝えたくて、家族みんなが幸せになる不登校カウンセリングを提供しています。お母さんの幸せは、子どもにとっても幸せです。家族みんなが元気を取り戻す、幸せな安心家族になりませんか

 

学校に行けない本当の理由を見つけ出し 親も子も、罪悪感や不安から解放されて 不登校の段階に応じた アドバイスで子どもの自立をうながしていく

10年間心の相談員として3000人以上の子供を笑顔にしてきたカウンセリング 「家族みんなを幸せにする不登校カウンセラー」今咲七海が 復活まで完全サポートしています

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